まっつの歌詞考察ブログ

気になった歌の歌詞を勝手に考察していきます。あとたまにスピなお話も

BUMP OF CHICKENの「カルマ」について語ってみた!

こんにちは✋まっつです。今回はBUMP OF CHICKENの「カルマ」について語っていきたいと思います。

カルマ

カルマ

この曲はゲーム「テイルズ オブ ジ アビス」の主題歌であり、このゲームのシナリオと歌詞の内容がリンクしているそうです。

わたしがこの曲を知ったきっかけは中学生くらいの時に流行っていたギターフリークスドラムマニアっていう音ゲーです。←世代がバレる笑。わたし自身はその音ゲーはしてなかったのですが、友達がこの曲を選んでよく遊んでました。当時は歌詞を深く考えるようなことはせずメロディーだけで、「この曲いいなあ」と思っていました。

 

さて歌詞を見ていきましょう。

ガラス玉ひとつ 落とされた

追いかけてもうひとつ 落っこちた

ひとつ分の陽だまりに

ひとつだけ残ってる

 

心臓が始まった時
嫌でも人は場所を取る
奪われない様に 守り続けてる

 

汚さずに保ってきた手でも
汚れて見えた
記憶を疑う前に
記憶に疑われてる

ここでいうガラス玉とは、何の喩えなのでしょうかね??わたし自身は「人間の肉体」ではないかなと思いました。

心臓が鼓動を打ち始めた瞬間に、ひとつの存在としての境界ができて、自我というものが生まれます。「嫌でも人は場所を取る、奪われないように守り続ける」まさにこのフレーズは、自我を表しているように感じます。また量子力学の観点から考えると「場所を取る」というのは「波の状態から粒の状態として振る舞う」というようにも考えられると思います。つまり、無限の情報源、宇宙、真空という波の状態から、ひとつのガラス玉、生命体という粒の状態として振る舞う。これは、この先に出てくる歌詞の「0と1の間」にも繋がってくると思います。「汚さずに保ってきた手」このフレーズでは、この曲名である「カルマ」を表現しているように感じました。生きている限りカルマは積まれていきます。そして、この世に存在を取るということは、必然的にカルマを持って生まれることになると思います。それは解脱した聖者でも同じことです。まあでも解脱しているから、そのカルマ自体(設定)選べるのかもしれませんがね笑。

 

サビいきましょう!

必ず僕らは出会うだろう
同じ鼓動の音を目印にして
ここに居るよ
いつだって呼んでるから
くたびれた理由が重なって揺れる時
生まれた意味を知る

「同じ鼓動の音🫀を目印にして」ここのフレーズは「類は友を呼ぶ」という理を表現しているように感じました。わたしたちの身体は原子からできており、原子は絶えず振動しております。その人それぞれの性格や感情にも振動数は大いに関わることでしょう。よく仲の良い人たちのことを「馬が合う」「波長が合う」などという言葉を使いますが、これも量子力学的観点から見ると、振動数が近いもの同士だと居心地が良いからそのように感じるのでしょうね。「くたびれた理由が重なって揺れる時 生まれた意味を知る」ここも興味深い部分ですね。苦しみを感じるごとに、この苦しみから抜け出したい!苦しみの原因とは何か?なぜこのような苦しみがあるのだろう?と、苦の原因の追求が始まります。これが生まれた意味を知る第一歩目のように、わたしは感じます。

苦悩は「さとり」へのトリガーです。

 

存在が続く限り
仕方無いから場所を取る
ひとつ分の陽だまりに
ふたつはちょっと入れない

 

ガラス玉ひとつ 落とされた
落ちた時 何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた

ガラス玉を照らす光はひとつ分しかない。みんな光を浴びたがって、他のガラス玉をお構いなく弾き出す。これは現代の社会を比喩しているように、わたしは感じました。

 

数えた足跡など
気付けば数字でしか無い
知らなきゃいけない事は
どうやら1と0の間

ここは、この曲で1重要な部分だと思っております。わたしたちが知的生命体として存在している訳は、この1と0の間を知るためであると考えるからです。つまり、ビッグバンがなぜ起きたのか?そして、ビッグバンがなぜ起こるのか?を知るために我々は生きているからです!一気に宗教じみたなぁ😅

でもきっとそうですよ、だって世界的にめちゃめちゃ頭良いとされているアインシュタインホーキング博士だって、この訳を解き明かすために生涯を費やしていますからね。

 

初めて僕らは出会うだろう
同じ悲鳴の旗を目印にして
忘れないで
いつだって呼んでるから
重ねた理由を二人で埋める時
約束が交わされる

鏡なんだ 僕ら互いに
それぞれのカルマを 映す為の
汚れた手と手で 触り合って
形が解る

「他人は自分を写す鏡」ということわざがあります。ガラス玉が隣り合えば、それぞれが映し出されます。つまり鏡の状態。自分に縁がある人たちは、自分のカルマの現れであると。カルマというのは、我々の魂が光に向かう途中の浄化のプロセス。だから自分の周りにいる敵も味方も全て平等であり、自分を作り上げてくれるかけがえのない存在であると感じました。例えば演劇のカーテンコールでは、悪役だろうが主人公だろうがモブキャラだろうが、みんなで観客の歓声に応えますよね。こんな感じで人生という演劇が終わると「全ては劇だったんだ」と安心して終われるといいなあと、わたしは妄想しています笑。まあ劇の最中では、それぞれの役を演じ切るために必死です。それと同様で、わたしたちもそれぞれ大変な思いをして生きているのでしょうね。

 

ここに居るよ 確かに触れるよ
一人分の陽だまりに
僕らは居る

忘れないで
いつだって呼んでるから
同じガラス玉の内側の方から
そうさ 必ず僕らは出会うだろう
沈めた理由に十字架を建てる時
約束は果たされる

僕らはひとつになる

陰と陽、プラスとマイナス、n極とs極、男と女は、相反するものはいつも引き合う。そしてこれらは、ふたつでひとつとして存在できている。だって光がなければ影もできないでしょ。このふたつたちを同時に観られるひとつの目が「生まれた意味」を知る為に必要なのではないでしょうか。

この曲を主題歌とする「テイルズ オブ ジ アビス」は「生まれた意味を知るRPG」と呼ばれるそうです。「生まれた意味を知るRPG」というのは、わたしたちが歩んでいる人生そのものだと思います。

最後まで見ていただきありがとうございました😊